Raf Simons and Music TEXT = MASATO MATSUMURA 去年出した『The Next Day』は事前の煽りも情報すらいっさいなく、ジャケットも『Heroes』を改編した、というより改竄したにちかく、そうすることで過去の自己像を、そこにまつわりついた英雄譚めいたパブリック・イメージとともに葬り去ったような、ボウイのいまなお衰えぬラヂカルなスタンスを示すものだった、私はそう思った。たまたま鋤田正義さんにそのころ仕事でお会いする機会があり、ボウイの新作で鋤田さんが撮られた写真を使いまわしましたね、と水を向けると、じつは僕のはじめてのロンドン行き目的はマーク・ボランでね。ボウイは知らなかった。まだメジャーになってなかったんじゃなかったかな。滞在先のホテルのヒップなグラム好きのボーイがボウイのことを教えてくれたんです――と鋤田さんは話しはじめられた。 『Heroes』をもちいた『The Next Day』のジャケットの上部には元のタイトルにマジックかなにかで線を引きその上に「DAVID BOWIE」の文字。中央には真っ白な空白があって、それは70に届かんとするロック・ミュージシャンがことさら円熟を誇示するでも残された日々を逆算し老境を自嘲するでもなく、60年代末からほぼ半世紀にわたる年月をポップ・スターとして生きてきた彼の「The Next Day」を未知のものとして捉えていると示すばかりか、ポッカリ空いた空白の窓は私たちリスナーの自己像を代入するための鏡のようなものであるといいたがっていたかにみえた。 「僕は“THE MIRROR(鏡)”というコンセプトが好きなんだ」 ラフ・シモンズは『Fantastic Man』(No14)でこう語った。鏡は精神分析的にいえば自我を獲る最初の段階だし、象徴主義の詩人のツールであり、アリスの通り抜ける扉であるとともにドゥルーズによれば「語であり物であり、名であり対象であり、意味であり示されたものであり、表現でもあり指示でもある」もの。つまり意味とイメージとを縮約し、重なり合ったそれらがたがいにじみあう場所だという。 ラフ・シモンズは彼の服を、それを着る男たち自己像の一部ととらえる。服は服だけでなりたつのではない。着ることでたちまち変革するヴィジョン。彼らを姿見へ追い立てる促進剤であることこそ服の正しいあり方である。とすると、ラフ・シモンズはアーティスト・エゴとビジネス・モデルの中間にあるファッションのマナーを律儀に守っているようにみえるがそうではない。ロック・スターたちをアイコンに不易流行を見定めながらおりおりの季節(ルビ/トレンド)に脱皮するようにブランド・イメージを刷新するとか、いい方は悪いかもしれませんが、もっと利口な展開の仕方があったはずである。ところが、音楽ひとつとっても彼の憧憬の対象はデヴィッド・ボウイでありクラフトワークであり、ジョイ・ディヴィジョン(イアン・カーティス)であり、スマパンであり、愚直なまでにそれは一貫し、イメージ・ソースとして何度もコレクションにたちあらわれる。
たとえばボウイなら、2004~2005年秋冬、2005年春夏、2012~2013年秋冬や2015年の春夏。まずそれらはコレクションにおいて、ロンドンでパンクが狂い咲いた76年から77年にかけてブライアン・イーノとともにベルリンで録音した2作――『Low』『Heroes』――でアトラクティヴでありながら硬質な音楽性を打ち出したころのボウイを思わせるシャープなシルエットとして表れ、彼のなかにあるボウイ像は山本寛斎のジャポニズムをまとったグラム期へ遡行しながら60年代の似姿としての80年代の色彩をほのめかし、20年後の2000~2010年代に回帰する。『Heroes』のB面1曲目「V-2シュナイダー」はヴォコダーの印象的なテクノポップライクな楽曲だが、それもそのはず、この曲はボウイが当時ハマッていたクラウト・ロック、なかでもクラフトワークに範をとり、シュナイダーはフローリアン・シュナイダーを指し、V-2は『重力の虹』でタイローン・スロースロップが女性とまぐわった場所めがけ落ちてくるナチスドイツが第二次大戦下に開発したロケットを彷彿させる――ことで、パンクの最中にあって唯我独尊でありつづけたボウイの特異さと卓見を思わせもするが、ボウイとクラフトワークを一列に並べたときにうかびあがるエキゾチシズムと未来主義の桎梏とも弁証法ともいえるものを、ラフ・シモンズの「鏡」にうつしてみれば、それらは彼の服と身体のつくるタイトさ、アシンメトリックな歪み、フォークロアを思わせるテキスタイルに置き換えられるのではないか。
ある種のダークさ、孤独、アイソレーション、彼の服をまとう身体がまとう形容は服と身体の即物的な関係ににじむもののエモーショナルないいかえにすぎない側面はあるにはあるのだろうけれども、物語を膨らませるやり方は、音楽を聴くのと同じく服を着るこちら側がにぎっている。(了)